第97話 昏冥は近づく


 暗い雲が、空を覆いつつある。
 とはいえ、まだ青空は見え、雲の隙間からは太陽の光が降り注いでいる。
 導きの庭園からは子どものはしゃぎ声。
 街からは活気のある人々の声――



 ぐるきゅぅぅ、と腹の虫が四重奏で鳴いた。



 「……屋台で何か食べていこうか」
 「そうだな……」
 「そうしましょう……」

 マグナの提案に、力なくうなずくリューグ、ロッカ、そしてエステル。
 彼らの腹の中以外は、至極平和な昼前であった。







 「それにしても、どこ行きやがったんだアメルは……」
 屋台で買ったパンを食べながら、リューグがぼやく。

 アメルの部屋には『ちょっと出かけてきます。多分夕方までには戻れると思います』と置手紙があっただけ。
 このままでは昼食も食べられるかどうか怪しかったので、こうして買出しに来た次第だった。

 「何か、心当たりはないんですか?」
 「心当たり、ですか?」
 ロッカの問いに、エステルがきょとんとして問い返す。
 「あ、もしかして……」
 「ん?」
 三人分の視線を受けながら、マグナは昨日のやり取りを話す。
 アメルが不満そうにむくれていたくだりになると、ロッカとリューグが納得したようにひとつうなずいた。

 「……ついていったでしょうね。間違いなく」
 「だろうな」
 さすが幼馴染だけあって、アメルのことはお見通しのようである。

 「あいつのことだ、こっそりあとつけてでもついていくぞ」
 「うわ、もしかしてまずいことしちゃったかな、俺達」
 ギブソンやミモザがいるから、大事にはならないだろうが。
 それでも一抹の不安を感じて、げんなりとマグナはつぶやいた。
 こんなことなら、アメル抜きで話をするべきだったのだ。今更どうにもならないが。

 「でも、アメルのこと怒らないでやってくださいね」
 仕方ない、と言いたげな笑みをロッカは浮かべた。
 「わかってるさ」
 マグナも肩をすくめる。
 リューグはため息をついただけで、特に何も言わなかった。

 「そろそろ行きましょうか。みなさんお腹をすかせて待っているでしょうし」
 エステルがパンの入っていた袋をたたむ。
 「そうだな」
 マグナ達も空の袋を丸め、歩き出そうとした。

 「きゃっ!?」
 エステルがよろけて、しりもちをつく。
 その側を、男が一人走り抜けて行った。

 「大丈夫ですか?」
 すぐさま、ロッカが助け起こす。
 「私は大丈夫ですけど……買物袋が……」
 エステルの言葉に視界を移動させると、走っていく男の手に買物袋が下げられていた。
 おそらく、すれ違いざまにエステルからひったくったのだろう。

 「待て!」
 その後を追って、マグナが走り出す。
 サイフはあの買物袋の中だ。取り戻さないと昼食を食べ損なう。
 なによりも、女の子相手にひったくりをするなんて。

 「あ、マグナさん!?」
 「おい、ちょっと待て!」
 背後からやけに焦った声が聞こえたが、構っている余裕はなかった。
 男の足は速い。気を抜くと見失ってしまう。



 だから、彼は気づかなかった。
 どんどん人通りの少ないところへと移動していることに。



 男がぴたりと足を止める。
 しめた。どうやら行き止まりのようだ。
 壁を背にして、ゆっくりと男がこちらを振り返るのが見えた。

 「さあ、もう逃げられないぞ」
 マグナも足を止め、一歩一歩間合いを詰めていく。
 油断なく視線を男に向け、抵抗に備えて剣に手を添える。

 「マグナさんっ……!」
 背後から、切羽詰った少女の声。

 その、瞬間だった。
 男がにやりと笑って、懐から何かを取り出したのは。
 嫌な予感がしたが、時すでに遅し。

 「はっ!」
 大気が震えた。
 男の手の中で、符が赤い光を帯びていく。
 やがてそれは形を崩し、上空へと舞い上がり―――弾けた。

 辺りが静寂に包まれる。
 比喩でもなんでもない。不自然なほどに、周りの音が全くない。
 ゼラムという街からこの一帯だけが切り取られ、他へ持っていかれたような―――そんな違和感。

 マグナは、この感覚を知っていた。
 「結界か!?」
 「ちっ、やっぱり罠かよ!」
 後ろでリューグが舌打ちするのが聞こえた。
 同時に、周囲にいくつもの気配が現れる。

 完全にこちらの油断だった。
 まさか、昼間の街中で仕掛けてくるとは。

 「死ね!」
 男が跳ねるように、ナイフを手にして襲い掛かる。
 否、それはもはや人間ではなかった。
 肌は黒ずみ、目はつりあがって爛々と輝き、額には角型の突起。
 嫌と言うほど見慣れた、鬼の姿だった。

 「くっ」
 マグナはとっさに剣を抜いて、鬼のナイフをはじく。
 ロッカとリューグもそれぞれ得物を手に迎え撃つ。
 だが、敵が多すぎる。
 多勢に無勢なのは明らかだった。

 「くそっ、きりがねえ!!」
 リューグが毒づいた。
 一人一人は強敵と言うほどでもないが、簡単に勝てる相手でもない。加えて、次々と襲ってくる。
 こういう時こそ召喚術が役に立つのだが、詠唱する余裕すら与えてくれない。

 「きゃあっ!!」
 少女の悲鳴が上がる。
 その場にいた全員の視線が、声の主にいっせいに注がれた。
 「エステル!!」
 名を呼ばれた彼女は、鬼に首を押さえられてもがいていた。
 気がつけば、エステルからだいぶ離れてしまっている。マグナもロッカもリューグも、誰も彼女の近くにいない。

 「どけっ!!」
 「邪魔だっっ!!」
 なんとかしてエステルを助けようとするマグナ達だが、当然鬼達がそれをさせるわけがない。
 一人倒せばまた次が来て、その間にも距離は開いていく。

 「この……っっ!!」
 疲労と焦りが、マグナの身体を支配していく。
 おそらく、ロッカとリューグも。
 しかし、どうにもならない。目の前の敵を、剣で一体ずつ倒していくのがやっと。
 (せめて、召喚術を使えれば!)
 そんな思いがマグナの脳裏をよぎる。


 その時、世界が揺らいだ。


 「え?」
 一瞬だけの、何かが歪んだような感覚。
 それが過ぎ去ると、街の喧騒が聞こえてきた。
 今の今まで感じていた、違和感ももうない。

 「結界が……?」
 「グアッッ!!」
 思わずつぶやいたマグナの耳に、獣のような悲鳴が届いた。
 そちらを振り返れば、エステルを捕らえていた鬼が砂のように崩れていくところだった。

 「きゃ……!」
 強引に連れて行こうとする力が突然なくなったため、抵抗していたエステルは勢いあまって前へと倒れそうになる。
 だが、地面に口付けする前に、彼女の腕を掴んだ者がいた。
 「!?」
 エステルの顔に一瞬驚愕が浮かんだが、すぐに消えた。
 体勢を立て直し、後ろを振り向く。

 そこにいたのは、見たことのない男だった。
 切れ長の赤い目。長い黒髪は、首の辺りで一つに束ねられている。
 服装はカザミネのものと似ていた。もっとも、マグナ達にわかる違いは上着が白、ということぐらいだが。

 「怪我はないか?」
 ぶっきらぼうな口調で言いながら、男が手を離す。
 「……あ、はい。ありがとうございます」
 数秒ほど遅れて、エステルが頭を下げた。

 「……誰だ!?」
 剣を向けながら、マグナが誰何する。
 ロッカとリューグも同様に、武器を構えたまま警戒の眼差しを男に向けていた。

 男はつまらなさそうに彼らを見ていたが、ふいに右手を軽く振った。
 途端、
 「ぐはっ!!」
 リューグの背後で悲鳴が上がった。
 声の主……体の数ヶ所に切り傷のついた鬼は、そのまま倒れて崩れ始める。
 「背ががら空きだ。そう簡単に死角を作るな」
 男は深々とため息をついた。
 「こんな奴ら以下か……俺は」

 「……ちっ」
 不利と判断したか、残った鬼達が地を蹴り去っていく。
 「待ち……」
 「深追いするな。そこの娘の安全が優先ではないのか?」
 追いかけようとしたリューグを、男の言葉が止めた。
 舌打ちしつつ、リューグは仕方なさそうに従う。

 「……あの、今日はあの人は一緒ではないのですか?」
 エステルの問いに、男は訝しげに目を細めた。
 だがすぐに、納得したようにああ、とつぶやく。
 「あいつなら別の用事だ」
 「そうなんですか」
 この二人は話が通じているようだが、マグナ達には何のことやらさっぱりである。

 「ええと……もしかして、知り合い?」
 困惑顔でマグナが尋ねる。
 「え?」
 訊かれたエステルは不思議そうな表情を浮かべた。
 しばしの沈黙の後、
 「……あ! やだ、私ったら!!」
 まるで失敗に気づいたかのように大声を上げた。
 マグナ達はさらに疑問符を浮かべる。

 「つまり、俺は……」
 見かねたらしい男が、口を開いた時だった。

 「…………うっ!?」
 エステルが、苦しそうに膝をつく。
 左腕を、怪我したように押さえていた。

 「おい、どうした!?」
 「気分でも悪いんですか!?」
 リューグとロッカの質問に、答えは返ってこない。
 ただ、うめき声だけが彼女の口から漏れる。

 「……一旦戻ろう」
 マグナが提案すると、双子はひとつうなずく。
 肩を貸そうと、マグナが腕に手を触れる。

 「アメ、ル……トリス、さん……だめ、逃げて……」
 切れ切れの声で、エステルがそう言うのをマグナは聞いた。
 「…………!」
 彼らは顔を見合わせた。




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謎の男登場……って、バレバレか(汗)
トリス達に何が起こったかはまた次回。

2005.2.5